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いろいろと備忘のための

音の不思議、音楽の不思議

ちょっとしたメモ。
昨日の記事をきっかけに「絵画-写真」と「音楽-録音」の類比について考えていたら、ベンヤミン「写真小史」に同様の類比が出てきて少し驚いた。
しかし、少し考えてみてこの類比は成り立たないんじゃないかと思った。写実主義の絵画は自然の模倣であるのに対し、(楽器や歌で演奏する)音楽は抽象芸術である点。綺麗な景色に感動してその景色をスケッチするのと異なり、その感動を音楽にする場合、明らかに形而上的なプロセスを踏んでいて、それは模倣ではないし比喩でもない*1
抽象芸術よりも、自然をそのまま切り取る模倣芸術のほうがより直截的である。音楽の場合、自然のサウンドスケープを録音すること(絵画/写真のように自然を「切り取る」こと)がたまたま近代の技術なくしてはなし得ないため、音による芸術は模倣芸術より抽象芸術が先に発展したということなのでは。もし原始時代に録音技術があったとすれば*2、その音楽ではない別の音響芸術は、音楽よりずっと先立って発展していたとではないか。この考えでいくとid:stereographika00さんの「録音技術が誕生した時点でそれは音楽ではなく別の呼び名の芸術として区別すべきであった」という主張も、すんなり受け入れられる。また、音楽がもともと数学のように数の概念を表すものであったというのも、むしろ当然のことに思えてくる。
音楽を絵画、写真との類比に当てはまらないとすれば、何が当てはまるだろう。建築?自然科学的知見に基づいて、人間が自然のなかに、自然界に存在しない構築物を創り出す、という。西洋音楽ではとくに、「音の構築物」なんて言うわけだし。

話は変わるが、少し前のid:Mondnachtstimmungさんが書いていた記事が、大変示唆的で興味深かった。以下引用(勝手に引用させて頂きます。。)。

「記憶」に「音」の要素が欠けるのは何故か。
「記憶」が「音」を蓄積しているのではなくて、「音」そのものが「記憶」を蓄積する。
http://d.hatena.ne.jp/Mondnachtstimmung/20090906

言われてみるとそうなんですよね。なぜか記憶には音がない。音楽を脳内再生したりできるから、音自体はもちろん記憶できるんだけど。「記憶が音を蓄積しているのではなくて…」ってなんか「言語論的転回」みたいだ。自分の場合、しばしば音(音楽)が記憶のトリガーになる、みたいな体験がしばしばあって、音は記憶の引き出しに取り付けられたタグのようなものなんじゃないかと思っている。
あと、この「タグ付け」機能は音だけじゃなくにおい、嗅覚にもあるように思う(いやまじで)

*1:そうだとすると標題音楽とかドビュッシーとかってなんなんだろう。あと音楽とアートワークの関係というのも…シニフィエシニフィアン

*2:たとえばワンピースに出てくるカタツムリみたいな