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いろいろと備忘のための

音楽史≒経済学史?

●音楽史と経済学史の歴史を俯瞰すると、うまいこと作曲家と経済学者を対応させて捉えることができるのではないか。そんな妄想を展開してみる。
●そもそもの発端は、菊地成孔の一連の著作における「和声理論は、物理学における均衡理論のアナロジーである」という指摘を見たことでした。経済学は、もうこれは常識的に均衡理論であるわけで、ここで自分のなかで音楽と経済学を類比して考えてみたい欲求が芽生えることとなりました。
●さらに、2009年を通じて西洋近代音楽史と近代経済学史を「たまたま」平行して学んでしまったせいで、両者をこじつけて捉える癖がついてしまったのです。
●こじつけ、とはいえ、「芸術の中でも物理学に最も近い」(?)音楽と、「社会科学のなかで物理学に最も近い」経済学ですから、そんなに的外れではないんじゃないかな、とも思います。
●また、作曲家も経済学者であろうと誰であろうと、その時代のイデオロギーの枠組みからは逃れられないわけだから、「作曲家のコンセプトと経済思想のコンセプトが、互いに源流を辿るとある一つのイデオロギーに収束する」などということがあっても何ら不思議ではないわけで。結局は一般教養的な思想史の話に収束していくのかな、とも思います。
●経済学部生や、経済学者がご覧になって、楽しんでいただければ嬉しいですが、どうなんでしょうね(笑)。一経済学部生の戯れ、と思っていただければ幸いです。
●本論は、正直まだ書ける気がしないのですが…とにかく、大まかな流れを以下にリストアップしてみます。

●「音楽の父」たるバッハと、「経済学の父」たるアダム・スミスニュートン的世界観の反映。
新ウィーン楽派の三人と、「限界革命トリオ」。「反」近代であり、かつ急進的な近代。(新ウィーン楽派は、「音楽におけるマルクス主義」などとも言われる)
●「新古典派」。これまでの思想の数学的な精緻化、理論構築。音楽における「新古典派」は、ヒンデミットなど*1。経済学における「新古典派」は「限界革命トリオ」+マーシャル、以下現在のミクロ経済学に至る。
●過剰なまでの、数学的精緻化・複雑化の流れ。トータル・セリエリスム。現代経済学。


●えー、そうです。この仮説(笑)の肝は、バッハ=スミスと、新ウィーントリオ=限界革命トリオという二点だけなんですけどね。それ以外は、ほとんどこじつけです。
●しかも、バッハ〜シェーンベルクの間の、一番肝心な古典派〜ロマン派の箇所が抜けている、という(笑) 特にロマン派*2が入ってくると難しいです。
●とりあえず、妄想はここまで。さすがに、このテーマでちゃんとしたレポートを書くのは難しそうですね。




●追記。これを書いたあと、アドルノのことを思い出した。アドルノの音楽哲学って、たしか音楽史を唯物史的に記述したのではなかったか。しかし、アドルノのことを私はほとんど全く知らないので、これ以上の言及は避けておきます。。

*1:たしか、現在のような「音楽理論」の教科書を発明したのはヒンデミット新古典派の人びとである、はず。

*2:ロマン派とマルクス主義を対応させる(ロマン派の近代批判的側面から)というのも考えてみたが、さすがに無理があるか