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いろいろと備忘のための

とりあえずbook1を終えて

  • 1Q84』のBOOK1はちびちび読むつもりが結局2日間で一気に読んでしまった。図書館で予約中のBOOK2はまだ当分回ってこなさそうなので、生殺し状態です。あー続きが気になる。内田樹氏のブログでも「もったいないからちびちび読んでいる」と言っているが、自分は欲に負けてしまった笑*1
  • しかし、なぜこうも面白く読めてしまうのか、不思議だ。
  • 例えば『ダンス・ダンス・ダンス』だったら五反田君の存在に強く引き付けられるから好きとか、ある程度部分に選り分けて好みを語ることができるのに、『1Q84』に関してはそういう選り分けによる「好きな箇所」は特にないにも関わらず、面白いのだ。
  • というか、そういう「選り分け」しなければいけない「あんまり楽しくない部分」が見当たらない。『ねじまき鳥』のノモンハン部分の取って付けた感、とか。*2
  • 加えて、『1Q84』に触発されて過去の作品を読み直そうと思って、本棚から手にとってみても、なぜか食指が伸びず読み進められない、というのも不思議。『1Q84』を読んでいる最中は、「ああ、明らかにこれまでの村上春樹作品の延長にある作品だな」と思ったので、『1Q84』から感得できるものはちゃんと過去の作品からも得られるだろうと思ったのだけど。作品世界を構成するアルゴリズムみたいなものはこれまでのを引き継ぎながらも、どこかに大きな変化があるのだろう。
  • じゃあこれまで感得できなかったもので新たに『1Q84』から得られるものとは、一体なんなのか?そのあたりを気にしながらBOOK2を読みたい。
  • と同時に、「やっぱり今は村上春樹を遠ざけておきたい」という気持ちも、確実にある。これは作品に対して文句があるというのではなく、あくまで「自分の読む力量が未熟なため、今は敢えて避けておきたい」という話。プチ「父殺し」みたいなものか?(違うか)
  • mixiかなにかで「村上さんの小説を読むと身の回りとかいろんなことを『ちゃんとしたくなる』欲が湧きます」みたいな書き込みを見た記憶があって、こういうのが所謂「小説に生き方の指針なりスタイルなりを学ぶ」的な読み方だと思う。私が村上春樹にどっぷり嵌まっていたときは、まさにこういう読み方だった。今はそういうのが私自身には「似合わない」ことが分かっているので(キザなせりふを真似してみたのは黒歴史(笑)。しかしハルキストにはよくある恥ずかしい過去ではないでしょうか)この読み方をなるべく避けようと試みる。けど私の小説の「読み方」が未熟なせいで、作品に浸っているうちについ自己啓発的に「生き方を学ぶ」的読み方になってしまう。そこで、「なるべく村上春樹的なものを読まないようにしよう」となるわけである。
  • そんなことを言いながら、今読んでいるのがフォークナーだったりドストエフスキーだったりカフカだったり、明らかに「村上さん」重力圏、かつ今まで読んでないのが恥ずかしいほどのメジャーどころ。 「自分は経済学部だし、小説はあくまで片手間で」というのが言い訳です汗
  • もう少し内容に踏み込んだことも考えてみたいので、できれば追々書きます。せっかくなんで半分だけ読んだ感想を書き留めておくのも一興かと。

*1:ところで、内田氏がそのブログのなかで「阪神間」や「芦屋」を引き合いに自身と村上作品の結びつきを語っていた。私の場合、育ちも今の住まいも阪神間であること、初期作品のある登場人物の所属大学がおそらく私が通う大学であること(ってわかる人にはバレてしまいそう)、「15歳」のときにレディオヘッドの『KID A』を聴き強く惹かれていたこと、などが挙げられる。こんなことを言うのは痛々しいと思われそうで嫌だけど、内田氏にもひけをとらないほどの「結び付き」ではないか。それはあくまで「自前で作られた既視感」なんだよという内田氏の指摘も社会学とか人文科学の教養ぽくて面白いけど、そのことはとりあえずここでは触れるだけにとどめておきます。

*2:私が村上春樹を読むようになったのは三年ほど前なので、長編を発売時にリアルタイムで読むのは初めてで、しかも十分その世界なりを知った上で読むわけで。これまでのように、「よくわからないながら手探りで読む」のとは違う。十分に読みきる力量がついた上でしかも作品に対するバイアスがないまっさらの新作を読むことができるという(この点は作者と出版社に感謝)稀有な状況で読むことができた。だから過去の作品より個人的な愛着が向いてしまうのは必然。ただし、これだけ面白いから最高傑作だとか、そういう判断は私にはできないのでそういうわけではなく、あくまで「私が」一番好きな作品になるかもしれない、という話。