archives of me.

いろいろと備忘のための

意識の流れのままに。

これまでドビュッシーの音楽は、理知的かつ、軽妙なところもあるという印象で、「激しく心揺さぶられる」というより「しみじみとした知的興奮」みたいなものだと思っていました。だから、心が疲れて、暴力的なまでに音楽の感情の波に揺さぶられたい、といった気分のときには、ブラームスピアノ曲だったり、シェーンベルク「浄夜」だったりを聴くことが多かったのですが。何のことはない、曲を選びさえすれば、(青柳いづみこさんが言っているように)デカダンで耽美な音楽が、沈み気味の気持ちをしっかり持っていってくれる。「感傷に浸りたいときはロマン派で」なんていうのは、先入観だったなと。
あるいは、ただ感情のトリガーとして、音楽の内容は何でもいいのかもしれない、とも思う。その音楽を聴いて、心揺さぶられるとき、果たしてこれはその音楽である必要があるのか、と。こういった疑問から、「音楽と意味との関係」といった興味が生まれてくるわけだけれど。まあそうはいっても、自分のリスニング遍歴において、頭の中に構造が刷り込まれ、その「源風景」や「におい」が、自分の一部になる、みたいなことも確かに感覚的にはあるわけですが。
今日、心揺さぶられた音楽その二、スティーブ・ライヒライヒの音盤はクラシックをちゃんと聴くようになる前から例外的に好きで、これがもうある種の「記憶」と対応して取り付けられたタグのように、しっかり結び付いているようで、これを聴くと、その特定の心象が呼び覚まされて、その感覚がすきなのです。ある特定の「記憶」、「心象」といっても、具体的なエピソードを思い出すというわけではなく、例えば季節の変わり目の特別なにおいに何とも言えない気持ちにになる*1、おばあちゃんの家のにおいで幼いころの記憶が呼び覚まされるとか、ホテルの空調の独特のにおいで旅行に来た気分になってテンション上がるとか、そういうのに似ています。*2わかりますかね?笑 ただ、こういう「記憶のトリガー」になってくれる音楽は何よりもまず自分が大好きな音楽でないといけないし、映像喚起的なもので、かつスッと長期記憶に刻まれるような、無意識の層に訴えかけるような、ドリーミーでイマジナリーな音楽である必要があるように思います。ライヒの音楽は極私的には、そういうもののひとつかもしれません。
それはそうと、ライヒの「18人」以降の音楽は大変聴きやすい。聴きやすいというだけでなく、本当に好き。っていうかこれらはミニマル・ミュージックなのか?「シティ・ライフ」とか「ディファレンと・トレインズ」とか。ライヒの音楽は、本当にポピュラーな人気を獲得していることから、あんまり知らない私のような人間が「ライヒが好き」というのは憚られる思いがあるのだけれど。しかし、ちゃんとした現代音楽のリスナー(メシアンシュトックハウゼンらを抵抗なく聴き、その理念的な部分もちゃんと理解している人)からすると、これら大変ポップな楽曲たちはどうなんだろう?やはりライヒといえば初期の「カム・アウト」などの仕事にこそ価値がある、といったところなのでしょうか?…いや、ライヒはほんとなんとなく聴いてるだけなんで、ミニマルミュージック関連の文献はそれなりにあるだろうし勉強しなければですけど。というかそれ以前に、ライヒはベスト盤を聴くことが多かったので、少しずつ未聴のものを聴こう。
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今日は、本文中にも書いたように気持ちがあちら側に行き気味な電波な一日であったので、こんなものを書いてみました。思い付いたときに書きたし、また少し寝かせ、という感じで。僕は、音楽について書かれた文章を読むのが好きで、それは必ずしも批評である必要はなく、ただその人がその音楽について何を感じるのかを知りたいのであり、主観に流されたものであれ、決して意味のないものではないと思っています。これまで自分ではそういうものを書くのは避けてきたのですが、いっそ書いてみようと思ったのでつらつらと書いてみました。

ドビュッシー:ピアノ曲全集

ドビュッシー:ピアノ曲全集

ドビュッシー:月の光(ピアノ名曲集)

ドビュッシー:月の光(ピアノ名曲集)

Music for 18 Musicians

Music for 18 Musicians

Proverb / Nagoya Marimbas / City Life

Proverb / Nagoya Marimbas / City Life

*1:そういえば、今日の夜は涼しい。秋のにおいがする

*2:嗅覚が喚起する記憶と、聴覚が喚起するそれとはどこか似ているような気がするが、どうなんだろう?こういう感じ方ってわかるでしょうか。音響心理学とかで扱う事象なんだろうか?