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いろいろと備忘のための

アンドレ・ケルテスのポラロイド作品





アンドレ・ケルテスは1894年生まれ、20世紀を代表する写真家の一人。一般的な位置づけは、「写真の詩人」と呼ばれるように叙情的な作風で、それでいてしっかりと構成的な魅力もある、といったところか。先日取り上げたクランク・ホーヴァット同様、目の保養になる。ここに挙げた画像は、いずれもポラロイド特有の色調に惹かれた。
以下は、『アンドレ・ケルテス写真集』からの抜粋/引用。

● ケルテスは、絵画から手法を取り入れたり、理論を用いることはなかった。構成的な要素も、生まれつきの直観による。「写真家としての彼の気配りや、カメラは何に対して最も適しているか、などの彼の考えは、直観的に、完全に開花した姿でかれを訪れ、彼がそれからそれることは決してなかった。」もともと趣味で始めただけに、過去の19世紀の写真家の成果を参照することもなかった。つまり、知識人的な発想じゃなく、芸術家というよりは、より実際的な考え方をもっていた。「わたしはアマチュアであり、一生アマチュアのままでいるつもりだ」。反感情移入的、ひかえめさ。
●アジェのパリが老年の枯れた味わいなら、ケルテスは青春。
●「構図」への意識、永続性。「瞬間をとらえた」的な写真とは対極にある(スタティックな写真?)。テュイルリー宮殿の椅子、モンマルトルの階段などの習作は、幾何学的形やパターンに対する興味、構成派的な要素がみてとれる。これらはモンドリアン、レジエ、トリスタン・ツァラなどからケルテスが吸収したものである。「フレーム内の対象相互間の自然な関係をとらえるために一歩ひきさがるという彼の態度にふくまれているのは、形とパターンは世界と対象物に自然にそなわっているめのであり、芸術家によって押し付けられるものではないということである。」写真的リアリズム。独特な自然主義(この反対として、人工的リアリズムがある)。
●上記がケルテスの大きな個性であり、ほかの写真家とはちがい、写真が芸術として正当であるかとか、自分は芸術家であるかどうかなどの問題は気にしなかった。
●そうした形式上のことに加え、「内容」は素朴でナイーヴ。古風な趣味。「自分の写真は日記の見出しだ」。椅子、階段、街灯などありふれた日常の事物のふしぎ。物語性。
● 「しかし彼が本能的に知っていたことは、異質なディテールの並置が見る人をイメージの表層をこえたところへつれていくということであっ。彼の最善の写真はつねにリアリズムがフィクションに席をゆずる一点がある。そしてとらえられた瞬間がそれ自体を表現すると同時に連想の世界を呼び出す。」「ケルテスにとって現実とは、物のありのままのすがたと、それに対する彼自信の反応とのオーバーラップであり、記録性と想像力があわさるこの領域かせが彼の主題どある」。マン・レイやモホリ=ナギといったシュルレアリストが注目したのもこの点である。

アンドレ・ケルテス写真集

アンドレ・ケルテス写真集