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いろいろと備忘のための

発射されないかめはめ波――DBZ・孫悟飯をめぐる考察

ドラゴンボールが唯一文学的なのは、セル編だ。私は、ジャパニメーションかぶれのフランス人に「ドラゴンボールで最も好きなのは?」と訊かれたら、即座に「セル編です」と答えるであろう。
鳥山明は、登場人物の内面描写をひどく嫌う。そして、これは大事なポイントだと思うのだけれど、自らが創造したキャラクターに対する心理的寄りかかり?のようなものが決定的に欠けているように思う(まさにこの点こそがDBが唯一無二の世界的大ヒット漫画となった所以なのではないか?)。多かれ少なかれ、キャラクターもののコンテンツは、作者とキャラクターが「馴れ合い」、ファンを巻き込んだ内輪盛り上がり的な結び付きを形成することで固定ファンを獲得していることが多い*1。しばしばドラゴンボールと比較される《ワンピース》なども、その一例であろう。そういった意味でドラゴンボールは《ワンピース》とは全く対照的な作品だ(ワンピースは、日本での人気の割に世界的な認知度は低いそうだ)。《幽遊白書》、《ハンター×ハンター》は、キャラクターが無惨な殺され方をすることなどから、一見キャラクターに対する目線は冷ややかに思える。しかし、作者であ
冨樫義博はむしろ、キャラクターに対する感情移入は強固であると思う。これは「なんとなく」だが、そこにはキャラクターへの容赦のない突き放しというよりは、倒錯愛/アンビバレンツに似たものを感じるのだ。
ともかく、《ドラゴンボール》は内面的/心理描写が希薄なだけに、ときおり物語が内面的/心理的な色彩を帯びる瞬間に、われわれは敏感に反応してしまうのだろう。以下はそのなかでも私がもっとも「ひっかかる」シーンだ。「セル編」の終盤、セルと悟飯の最終戦闘において、悟飯に対し「怒りを解放しろ」と諭す悟空が、ピッコロから叱咤され深く動揺するというシーンである。ドラゴンボールのなかでも極めて異質なシーンだ。
しかし、悟空が、自身の息子に対するコミットのあり方について動揺するこの描写は、このワンシーンのみである。その後悟飯が怒りによってスーパーサイヤ人2に覚醒した際は、コロッと態度を一変させてしまう。しかし、このシーンこそは、《ドラゴンボール》全編において唯一、悟空が主人公としての立場を脅かされるシーンであり、ゆえに物語の破綻の危機が頂点に達するシーンでもあるのだ。そもそも、セル編のダイナミズムは、悟空が病に倒れる、神の死(ピッコロとの合体)、タイム・パラドクス、そしてセルの存在など、一貫して「物語世界の破綻の危機感」に脅かされ続けている点にあるわけだが。
この悟空の父としての態度。そして一度は悟飯を擁護しつつも、結局は悟空に言いくるめられて「結果オーライ」で済ませてしまうピッコロの態度にも、私は激しく憤慨させられる*2
しかし私の憤慨は、そもそもお門違いというものだろう。悟空というキャラクターは、物語世界の中心であり、結局のところ、この物語は悟空にとってもっとも都合がよくなるように動いていく。それがこの物語世界の構造であり、本質である*3アダム・スミスは、ニュートン万有引力になぞらえて、社会をある一つの一般法則によって説明することを構想した。スミスになぞらえていえば、DBの物語世界を通底する一般法則とはすなわち「あらゆる事象・現象が悟空を中心とした調和の形成に向かって動く」そして、こうした世界観を日常的リアリズムのフォーマットに落とし込んだ場合、宇野常弘氏のいう「セカイ系」物語となるのだと思うのだが。
そして、「悟空を中心とした調和」とは、「悟空にとって一番都合のいい状態」に他ならない。だから、先に指摘した「悟空の主人公としての立場の危機」はすなわち「物語世界の破綻」をも意味するのだ。
ところで、悟空というキャラクターがそうした世界に放り込まれたとき、彼はどのように振る舞うのか。ここで、物語のキャラクターというのは、作者の手を離れ、作品世界のアルゴリズムに制約を受けながら自らの欲求を最大限満たすように動くものとする(合理的個人の仮定)。このとき悟空は、上記のような物語世界のシステムそのものに甘やかされて、「自分の思い通りになるように、周囲の意向を無視」するばかりか、「その周囲の人々を自分の思い通りに動かそうとする」という普通に考えればとても主人公とは思えない傍若無人なパーソナリティーを形成していくのだ。傍若無人といっても、このような人物造形は少年マンガの主人公に多くみられる。劇場版DBZにボージャックというキャラクターが登場するが、そのボージャックを殺すのが悟飯である、というのも大変示唆的だ*4。たぶんそのほうが「主人公らしく」、「キャラが立つ」ためであろう。そしてこのような主人公をもつ物語は、類型的には前近代的な神話の物語に近いと思う。悟空は神話における主人公=英雄に相当する。
●この傍若無人な主人公に最も迷惑をかけられ続ける登場人物は誰か。英雄のライバル=ベジータも捨てがたい。しかし、最大の被害者は子たる悟飯であろう。父なる悟空、子なる悟飯。
悟飯の「物語」は端的にいってアンチ・エディプス=「父殺し」の物語である。しかし、彼の「物語」は決して幕を開けることはない。ブレヒトに即していえば、悟飯を主役とした舞台は始めから異化されてしまっている。彼の拳銃=かめはめ波は、撃つべき対象を見失ったまま(というより、本当は見失っていないのに、見失っている。自分が見失っていることに彼自身は気がつかない)、発射されることはない。いや、実際には発射されている。しかし、それが本当の「敵」に向けられることは、決してなかった。
●悟飯が銃を向けた相手――すなわち、セル。彼が抑圧された「父殺し」の欲求を晴らす相手だ(代替的「父殺し」)。《ドラゴンボール》全編を通じて、彼が暴力に徹するのはこのただの一度だけである(劇場版を除けば)。
そしてクライマックスはこうだ。彼が遂に銃を向けるとき、その背後には、彼が「本当に銃を向けなければならない相手」が取り付いているのだ。このような皮肉が未だかつてあっただろうか?「父殺し」に父が加担するなどという…。
●そして、今にして思えば、悟飯が真の・代替ではない「父殺し」をなし得たのは、唯一あの悟空とピッコロの口論の一幕だけであったといえる。しかし、お分かりのように、それが実行されることは決してない。それは物語の破綻を意味するのだから。
そのようにして、我々は悟飯の「声にならない声」、「発射されないかめはめ波」に、胸を打たれるのだろう。

*1:このような話は、東浩紀の「データベース消費」の議論に通じるものがあるかもしれない。東浩紀の著作はしっかり読んでいないので自信がないですが…

*2:と言ってみる笑

*3:ここで、ご都合主義だ、などと紋切り型の批判をしていてはつまらない。

*4:冗談です笑。まあ、この記事全体が冗談ですが笑